室千草の作品について

Bibliography|2006.9.25

室千草の作品は映像(ビデオ)を用いたもので、プロジェクターによる投影、もしく
はオブジェとしての小型モニターによる提示が主たるフォーマットである。それらは
1990年代に、現代美術の世界でモードとして一気に広まり、今やスタンダードと
して定着した感のある様式であるが、彼女の仕事もそのような状況との関連で生まれ
てきたものであろう。
私自身が彼女の作品から受ける印象は、奇妙なねじれの感覚と、それとは矛盾するの
であるが透明な空虚さである。このような印象がどこから生じるのか私なりに考えて
みることにする。
映像は現実の風景をカメラのフレームで切り取るところからスタートする。フレーム
の内側(=写っている内容)は、その外部に対して切り取られるそのことのみにより
特別なものとなり、注視すべき意味を帯びるのである。しかし彼女の映像には、それ
とは異なるニュアンスがある気がしてならない。それは注視しなくても構わない映像、
見られていなくても存在する映像と言ったらいいのだろうか。視覚表現は人に見られ
ることによって成り立つが、そこのところが異様なまでに希薄な感じがするのである。
これは逆説的であるが、彼女が視覚にかかわる問題を扱っているからこその印象であ
ろう。それは例えば我々が日常生活の中で、ちょっと目を離した隙に起こっているか
もしれない出来事を映像化しているかのようでもある。もう少し正確に言うと、視野
の片隅に映っていて、見えてはいるがはっきりとは認識できていない事象を、改編し
て捉え直しているようである。
普通ならば視野の片隅の出来事を改編しねつ造することで、認識の明瞭な世界とは異
なる別の世界の姿を映像で見せるというのが、映像表現者の正常?な態度だと思うの
だが、さらに彼女がユニークなところは、片隅の世界を片隅のまま提示しているとこ
ろである。言い換えると少しだけ見えているかもしれない世界を、少しだけ見せると
いうことを概念的にではなく感覚的に実現しているのである。
室の作品は空間に投影、設置されることで完成する。それは映像によって空間を構成
し変容させるインスタレーションであるが、それ以上に映像のある風景を作り出す作
業であると私は思う。そこで映像の内容は注視されるべき唯一の対象ではなく、風景
を構成する要素のひとつとなる。ホワイトキューブの展示空間で、他に壁と床しかな
い状態でもそれは風景の一部にすぎないのである。それはおよそ習慣的な映像の見方
からかけ離れた有り様であって、これだけでは説明しきれないが、先に述べた印象を
引き起こす要因の一部はここらあたりにありそうである。
この度、室千草の作品展を大阪芸術大学情報センターで行うにあたり、展示ホールの
広い空間にどのような風景が出現するのか、そこに立ち会うことのできる幸運を感じ
ずにはいられない。 

大橋 勝/大阪芸術大学芸術計画学科講師